兵庫県三木市。現在は「金物のまち」として全国的に知られていますが、その歴史は非常に古く、古代から中世、そして戦国時代の激戦を経て、現在の姿へと繋がっています。
今回は、三木市の歩みをより深く知るために、公式な資料をもとにその歴史を年表形式で整理しました。地元の歴史再発見や、自由研究、記事の資料としてぜひご活用ください。
【古代・中世】播磨風土記から戦国の動乱へ
- 713年(和銅6):『播磨風土記』の録上を命ぜられる
- 789年(延暦8):美嚢郡大領韓鍛首広富が献稲の功により外従五位下を授かる
- 868年(貞観10):播磨国大地震
- 1102年(康和4):久留美の窯で焼かれた瓦が京都尊勝寺の建築に用いられる
- 1153年(仁平3):この年の銘のある経筒が高男寺より出土する
- 1156年(保元1):平清盛が播磨守に任ぜられる
- 1184年(寿永3):一の谷合戦。三木地方に軍士の往来がさかんとなる
- 1186年(文治2):源頼朝が平頼盛の所領東這田庄を武士が横領するのを停める
- 1212年(建暦2):藤原定家が細川庄を姉の九条尼より譲られる(兄の成家は志深庄を領していた)
- 1221年(承久3):鎌倉幕府が這田庄を平光盛に返付せしめる
- 1267年(文永4):太政官符が下され、蓮花寺の条規が定められる
- 1277年(建治3):阿仏尼は子の冷泉為相の細川庄の相続をはかり、訴訟のため鎌倉に下向す。こののち、細川庄の訴訟が繰り返される(正和2年の裁許状が現存する)
- 1303年(嘉元1):久留美庄跡部村が『春日神社文書』に見える。志染庄も興福寺領として知られる。ほか後宇多院御領吉川上下庄も見える
- 1309年(延慶2):この年の銘のある鐘が久留美の慈眼寺にのこる
- 1315年(正和4):この年の銘のある石仏が志染のドッコイ古墳址から出土する
- 1334年(建武1):建武新政。守護赤松氏台頭。間もなく南北朝動乱時代となり、三木街道は重要軍事道路となる
- 1346年(貞和2):蓮花寺鐘や高男寺出土の古瓦が現存する
- 1352年(文和1):足利尊氏が久我家領這田庄の違乱を停める。このころ、天竜寺領志染庄が栄える
- 1429年(正長2):播磨国一揆。赤松氏の守護領国の発展や地侍らの台頭で寺社本所領荘園がぜんじ崩壊する
- 1441年(嘉吉1):嘉吉の変(赤松氏いったん亡ぶ。やがて再興)
- 1481年(文明13):大和の瓦大工橘氏の一族が移住してくる。応仁の乱(1467〜77)の戦後復興気運により、寺社本所領の復興がはかられ、三木郡の諸庄のことも見える。なお、三木街道は西国脇往還として繁栄する
【戦国・江戸時代】三木城の攻防と城下町の発展
- 1513年(永正10):すでに戦国乱世となり、別所氏台頭。このころ、権大納言下冷泉政為は官を辞して細川庄に下る
- 1555年(弘治1):三好長慶が別所就治の三木城を攻囲して敗れる
- 1567年(永禄10):別所氏は三好三人衆を援け、その手兵が奈良の松永久秀を攻める
- 1568年(永禄11):織田信長入京。播磨にもその勢が及んでくる
- 1570年(元亀1):浦上宗景が三木城を攻める
- 1578年(天正6):別所長治は毛利・荒木氏らに呼応し織田信長に叛をはかる。細川城の冷泉氏亡ぶ。羽柴秀吉が別所氏の攻囲にかかる
- 1580年(天正8):三木城開城し、別所氏亡ぶ。三木町は秀吉の領国下となり、地子を免許せられる
- 1585年(天正13):中川右衛門大夫秀政が三木城主に任ぜられる
- 1596年(慶長1):但馬豊岡城主杉原家次が三木郡を領する
- 1600年(慶長5):関ヶ原役。功賞で池田輝政が姫路城主となり、その家老伊木清兵衛が三木郡を領する
- 1617年(元和3):小笠原忠真が明石城主とされ、三木郡を領有する
- 1619年(元和5):明石城完成(三木城建物もこれに使用された)。三木郡もその領地となる
- 1632年(寛永9):小笠原忠真が三木町の衰廃を憐れみ地子免許等を令す
- 1640年(寛永17):新領主水谷伊勢守(備中国成羽城主)が三木町の地子を免許する
- 1678年(延宝6):延宝検地。三木町地子免許の訴訟のため、町惣代二人が江戸へ下って成功する
- 1694年(元禄7):本要寺内に宝蔵を建てる
- 1701年(元禄14):このころの「質屋仲間帳」がある
- 1704年(宝永4):新領主黒田豊前守直邦(常陸国下館城主)が三木町の地子を免許する。本要寺内に延宝検地のさいの岡村、大西両名の粉骨砕身を顕彰し、義民碑を建てる
- 1713年(正徳3):このころ、古手屋数軒が見える
- 1720年(享保5):「久留美村明細帳」がのこる
- 1725年(享保10):大柿村と細川中村とが水論する
- 1736年(元文1):十河与次大夫の御林山新開が許可される
- 1742年(寛保2):「三木町諸色明細帳」がのこる
- 1743年(寛保3):三木町ほか上州前橋藩(酒井雅楽頭忠恭)領となる(三木町地子免許状あり)
- 1744年(延享1):三木町ほか山形藩(堀田相模守正亮)領となる(翌2年三木町地子免許状)。三木町ほか天領となる。また三木町ほか上州館林藩(松平右近将監武元)領となる(翌々5年三木町地子免許状)
- 1748年(寛延元):三木野道具鍛冶仲間8名が新規業者の停止を訴えている
- 1752年(宝暦2):三木町と明石との馬方の間で紛争がおこる
- 1770年(明和7):道具屋清七が三木川通船の許可を得る
- 1774年(安永3):三木川通船の塩の運上免除を願い出る
- 1783年(天明3):このころ金物の仲買問屋が成立した。大坂文珠四郎鍛冶仲間から三木鋸鍛冶が訴えられる
- 1803年(享和3):三木町の仲買問屋と江戸市場との直接取引がはじまる
- 1804年(文化元):この年の家別人数商売の書上がのこる
- 1809年(文化6):このころの大工・畳師の定宿届がのこる
- 1817年(文化14):大坂三郷菜種油絞り仲間から三木町周辺の無株の搾油者が訴えられる
- 1820年(文政3):呉服商人が恵比須講外の商取引を禁止するように願い出ている
- 1829年(文政12):三木切手会所が設立される
- 1830年(天保元):「国産金物買上げ」事件がおこる
- 1833年(天保4):加古川筋一揆
- 1842年(天保13):三木町ほか明石藩(松平兵部大輔斉韶)領となる(翌14年三木町地子免許状)
- 1859年(安政6):壬生藩領民の強訴がおこる。井上八郎兵衛が二位谷池の修築をはじめる
- 1860年(万延元):近藤文蔵が近藤新田の開発に着手する
- 1871年(明治4):市域全域が姫路県に所属する(のち飾磨県)
- 1872年(明治5):大小区制がしかれる。三木郵便取扱所が開設される。学制頒布により三木市域に29校の小学校が開設される
【近現代】近代化と三木市の誕生・発展
- 1876年(明治9):飾磨県が兵庫県に合併される
- 1878年(明治11):警察が明石警察署三木分署と称される。郡内に15の戸長役場が置かれる
- 1879年(明治12):美嚢郡役所が設置される
- 1889年(明治22):町村制が施行される
- 1892年(明治25):淡河川疎水の完成
- 1893年(明治26):三木銀行・美嚢郡教育会・三木警察署などがそれぞれ発足する
- 1895年(明治28):三木収税所が設置される
- 1904年(明治37):三木で軍用シャベルの生産が開始される
- 1907年(明治40):三木金物販売同業組合が結成される
- 1911年(明治44):三木電灯株式会社が設立される
- 1916年(大正5):播州鉄道(現国鉄三木線)が開通する
- 1919年(大正8):県立工業試験場三木分場設置。三樹幼稚園が創立される
- 1921年(大正10):バス営業がはじまる
- 1923年(大正12):美嚢郡役所が廃止される
- 1924年(大正13):三木実科高等女学校が設立される
- 1926年(大正15):『美嚢郡誌』が完成する
- 1929年(昭和4):三木郵便局・町立図書館が開設される
- 1930年(昭和5):三木実科高等女学校が県立三木高等女学校となる。大水害、二位谷池、福田池が決潰する
- 1932年(昭和7):広野ゴルフ場ができる
- 1935年(昭和10):三木町にはじめて消防自動車が常備される
- 1938年(昭和13):三木電鉄が鈴蘭台から三木まで開通する
- 1945年(昭和20):美嚢川が氾濫する
- 1947年(昭和22):県立三木高校が発足する。中学校が設立される。三木商工会議所が設けられる
- 1948年(昭和23):三木税務署開設。三木町教育委員会が設置される
- 1949年(昭和24):小野工業高校三木分校が開設される
- 1951年(昭和26):三木町と久留美村とが合併する
- 1954年(昭和29):三木市発足。市章制定。第一回市長選挙(小林利八氏当選)。三木社会福祉協議会が設立される
- 1955年(昭和30):三木市民病院開設。「希望の鐘」が完成される。吉川診療所開設。第2回市長選挙(衣巻顕明氏当選)
- 1958年(昭和33):市庁舎完成。塵芥処理場が完成する
- 1959年(昭和34):敬老院が開設される
- 1960年(昭和35):上水道の給水がはじまる
- 1961年(昭和36):ガス供給がはじまる。市営火葬場開設。第3回市長選挙(衣巻顕明氏当選)
- 1962年(昭和37):安全都市宣言。善意銀行が設置される
- 1963年(昭和38):市制10周年記念式典を挙行する。浄化研究所開設
- 1964年(昭和39):市街地住居表示の実施。消防本部設置。台風23号により災害救助法が発せられる
- 1965年(昭和40):市旗制定。バイセリア市と姉妹都市となる。児童館が開館する
- 1966年(昭和41):NHK三木テレビジョン放送局(UHF)放送開始。第4回市長選挙(衣巻顕明氏当選)
- 1967年(昭和42):志染簡易水道の給水がはじまる。三木金属工業センターが開設される。電話ダイアル自動化。第5回市長選挙(大原義治氏当選)
- 1969年(昭和44):民放UHF中継局開設。「救急業務」が開始される
- 1970年(昭和45):市立上の丸保育所開設。『三木市史』が刊行される
年表から見る三木市の3つの考察
年表を整理していく中で、今の三木市の基礎が作られた興味深いポイントが見えてきました。
1. 「金物のまち」を支えた秀吉の特権
三木の歴史における最大のターニングポイントは、1580年の三木合戦終結です。秀吉は街を焼き払った一方で、復興のために「地子(土地税)免除」という破格の優遇措置を与えました。この特権を守るために江戸時代を通じて町民が団結し(1678年の江戸直訴など)、その経済的基盤が鍛冶職人たちの定住と技術向上を支え、今日の「金物のまち」を作り上げたと言えます。
2. 物流の要所としての優位性
江戸時代の年表には、大坂や江戸との直接取引、さらには水運(三木川通船)に関する記述が目立ちます。内陸にありながら、川を利用して海へと繋ぎ、さらに明治・大正にはいち早く鉄道(播州鉄道・三木電鉄)を通したことで、製造した金物を全国へ届ける「物流ネットワーク」を常にアップデートし続けてきたことが三木の強みでした。
3. 古代から続く「ものづくり」のDNA
三木の産業は戦国時代から始まったと思われがちですが、年表を遡ると700年代の『播磨風土記』や、1100年代には京都の寺院に瓦を供給していた記録があります。古代からこの土地には質の高い職人集団が存在しており、その土壌があったからこそ、後の金物産業がこれほどまでに花開いたのではないでしょうか。
結び
三木市の歴史は、戦乱からの復興と、それを支えた先人たちの粘り強い交渉・努力の連続でした。 普段何気なく歩いている道や、手にする金物道具の背景にある膨大な時間を知ることで、地元の風景が少し違って見えるかもしれません。
参考資料: 三木市史年表

