明治から続く三木の誇り。伝統の折りたたみナイフ「肥後守」誕生の歴史と技術の軌跡 兵庫県三木市

キャンプや工作、あるいは懐かしい文房具として愛され続けている折りたたみナイフ**「肥後守(ひごのかみ)」**。

そのシンプルで質実剛健な姿には、実は明治時代から続く職人たちの情熱と、ある「技術革新」の物語が隠されています。今回は、当時の貴重な文献をもとに、肥後守がどのようにして兵庫県三木市で生まれ、全国区のブランドへと成長したのか、そのルーツを紐解きます。


1. 「肥後守」の起源は熊本にあり?名称の意外な由来

「肥後(現在の熊本県)」という名がついているため、九州の刃物だと思われがちですが、その発祥は兵庫県三木市にあります。

明治26年〜27年頃、三木町の村上真治氏永尾重次氏の先代たちが、のちの肥後守の原型となるナイフの製造を始めたのが全ての始まりでした。

なぜ「肥後」の名がついたのか。それは、当時このナイフの主な販路が熊本(肥後方面)だったからです。現地の商人と協力し、現地のニーズに合わせて改良を重ねた結果、「肥後守」という銘を打つことがステータスとなり、その名が定着していきました。


2. 存亡の危機を救った「丸鋼焼入れ」の発明

当初、三木のナイフ作りは決して順風満帆ではありませんでした。安価な競合品に押され、品質とコストの板挟みにあっていたのです。

この窮地を救ったのが、阿部松平氏による**「丸鋼(まるはがね)焼入れ法」**の発明でした。

  • 旧来の課題: 手間がかかり、品質にバラつきがあった。
  • 革新: 阿部氏の新手法により、効率よく、かつ鋭い切れ味を安定して引き出せるようになった。

この技術革新こそが、肥後守を単なる「安物ナイフ」から「一級の道具」へと押し上げるターニングポイントとなったのです。


3. 東京での大ヒットと「皇太子殿下」へのお買い上げ

肥後守の名を全国に轟かせた決定的な出来事が二つあります。

十万丁の注文

大正時代、東京の「水谷兄弟商会」という商人が、一度に十万丁という途方もない数の注文を出しました。誰もが尻込みする中、永尾重次氏がこの大役を引き受け、見事に完遂。これがきっかけで、肥後守の販路は一気に全国へと広がりました。

皇室への献上

明治44年、のちの大正天皇である皇太子殿下が三木をお訪ねになった際、この肥後守をお買い上げになるという栄誉に浴しました。このニュースは「三木の刃物」の品質を証明する最高の看板となり、年間産額20万圓に達するほどの巨大産業へと成長したのです。


4. 職人たちの結束:肥後守ナイフ組合の精神

明治32年には「肥後守ナイフ組合」が設立されました。 当初はわずか数名だった組合員も、最盛期には40名を超え、200人もの従業員が関わるほどに。

組合が何より大切にしたのは、「切味(きれあじ)」という刃物の命を下げないことでした。たとえ不況の波が押し寄せても、粗製濫造(安かろう悪かろう)を戒め、品質の統一を図る。この職人たちのプライドが、100年以上経った今もなお、私たちが手にする一本一本に宿っています。


まとめ:一本のナイフに刻まれた、三木の歴史

現在、登録商標として「肥後守」を名乗れるのは、三木の永尾かね駒製作所のみとなっています。

私たちがキャンプで鉛筆を削ったり、焚き火の準備をしたりするときに感じるあの鋭い切れ味は、明治の職人たちが苦労して編み出した「丸鋼焼入れ」や、販路を切り開いた先人たちの努力の賜物です。

次にその真鍮の鞘(さや)を手に取るときは、ぜひ三木の職人たちが歩んだ熱い歴史に思いを馳せてみてください。


(編集後記) 今回の記事は、当時の産業史を記録した貴重な文献をもとに構成しました。古い文字で綴られた記録からは、単なる道具以上の「情熱」が伝わってきます。

参考文献: 『播州特産金物発達史』等の記述より

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