【三木の悲願】難工事と経済危機を乗り越えて。三木電気鉄道の開通ドラマ 神戸電鉄 三木市

今では当たり前のように走っている「神鉄」ですが、その前身である「三木電気鉄道」の開通には、想像を絶する苦労があったことをご存知でしょうか?

世界恐慌という逆風、広野ゴルフ場との交渉、そして多くの犠牲を出した難工事。今回は、三木の「足」を切り拓いた先人たちの不屈のドラマを、当時の資料からご紹介します。


1. 世界恐慌の嵐の中でのスタート

三木電気鉄道株式会社が設立されたのは、昭和11年(1936年)6月29日のことでした。 当時は世界経済恐慌のあおりを受け、国内経済も低調を極めていた時期です。

当初の資本金は60万円でしたが、その株式の払い込みには非常に難渋したと記録されています。まさに、お金も資材も足りないという「崖っぷち」からのスタートでした。


2. 広野ゴルフ場を横断!?ルート変更の裏側

鉄道敷設の計画段階で、大きな壁となったのが「広野ゴルフ場」の存在でした。 当初の計画ではゴルフ場を横断する線路敷設が予定されていましたが、ゴルフ場側からの強い反対に遭います。

結局、線路はゴルフ場の北側を大きく迂回する現在のルートに変更されました。しかし、皮肉にもこの難局を救ったのも広野ゴルフ場でした。建設費調達に苦しむ鉄道会社に対し、財界人が多く集まるゴルフ場の会員たちから合計40万円もの払い込みがなされ、無事に開通へとこぎつけることができたのです。


3. 藍那(あいな)の悲劇。犠牲の上に築かれた鉄路

三木線の建設は、地形との戦いでもありました。 鈴蘭台から三木までの区間は非常に急勾配が多く、全線の約26%が急な坂道で占められています。

特に、現在の藍那付近のトンネル工事では痛ましい事故が発生しました。昭和11年11月25日、トンネル東口のがけ崩れにより、作業中の労務員11名が生き埋めとなり、6名が命を落とすという事故が起きています。今私たちが利用している鉄路は、こうした尊い犠牲の上に築かれたものなのです。


4. ガソリンカーから電車へ。待ちに待った全線開通

ガソリンカー

工事は遅れに遅れ、一時は国からの鉄道補助金が打ち切られる危機にまで陥ります。 苦肉の策として、まずは架線(電気)が間に合わなかった「鈴蘭台〜広野ゴルフ場前」間で、定員28名のガソリンカーによる運転が開始されました。

その後、着実に電化と延伸が進められ、ついに昭和13年(1938年)1月28日、鈴蘭台から三木(現・三木上の丸駅)までの全線が開通します。

開通による変化: それまでは三木から神戸へ行くのに、バスや国鉄を乗り継いで70分かかっていました。それが電車の開通により50分へと大幅に短縮され、三木の利便性は飛躍的に向上しました。


5. 三木金物の発展を加速させた「新しい足」

鉄道の開通は、単なる移動手段の確保以上の意味を持っていました。 当時の資料には、三木市を「全国の木工用刃物類の大半を生産する生産都市」と紹介しており、この鉄道が綿織物の西脇やそろばんの小野といった周辺都市を阪神間とつなぐ「新しい便利な交通路」になったと記されています。

三木で作られた金物が、この鉄道に乗ってより速く、より多く全国へと運ばれていったのです。


結び:先人の想いを乗せて走る電車

三木電気鉄道の歴史は、まさに「三木の底力」を示す歴史でもあります。 不況、難工事、そして事故。それらすべての障害を乗り越えて開通したこの路線があったからこそ、戦後の三木市のさらなる発展が可能になりました。

次に電車に乗るとき、車窓から見えるあの急勾配やトンネルに、かつての職人や建設に関わった人々の想いを感じてみてはいかがでしょうか。


参考資料: 『三木線開通』『第3章 戦時期』資料

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です